地域の歴史(要約)❶

 ご祈祷の後にお下がりとしてお渡ししている『宗像神社の話』という本があります。その中から、主要なところを抜粋して記載します。

 

 

伊豫・愛媛の起源

《『古事記・日本書紀』国生み神話より 

 国生みの二神の伊邪那岐(男性神)と伊邪那美(女性神)が、淡道之穂之狭別島(淡路島)、次に伊予之二名島(四国)を産む。この島は「身一つにして面四つあり(体は一つで顔は四つ)、故、伊豫國は愛比賣 えひめ と謂 ひ」、続いて讃岐(香川)・阿波(徳島)・土佐(高知)を産んだという。

 

※県名の由来は、今治藩医で国学者の半井梧庵が編纂した『愛媛面影』で〝愛比売〟に〝愛媛〟の文字を当てたことによる。

 

 

 

伊豫各地の統治

 景行天皇(西暦71〜130)は、皇族や皇子を別君として派遣し諸国を統治した。伊予は第12皇子の武国凝別命が統治する。その子孫の御村別は御村(東予地方)を、国乳別命を宇和別君(南予地方)、伊豫津彦命(伊豫豆比古命。一説には十城別主)を伊豫別君(中予地方)とした。

 〝別子 わけのこ 〟と尊び呼んでいたが、後に〝別子〟になったという。

 

 『旧別子案内』(昭和35年 東平青年学級 制作・宗像神社所蔵)には伝説として「文治五年、近藤半之丞、藤原秀晴が近江国北泉から北の地へ来て瓜生野町と称して開拓。その子孫が各所に住居し『子を別けた山村』の意味で後に別子山村と改めた」との記載あり。

 

○ 伊予の統治について

 景行天皇が全国各地に送って統治させた皇子や皇族は別君と呼ばれ、支配者の意味を持つ称号である。

 また、神武天皇の東征以前に大山積神の子孫である乎知命(小千、小市とも記載される)が四国に渡り、越智氏、河野氏などの祖となり、東予地方にも勢力を持ったとする説がある(予章記=河野家の家譜等)

 

 

 

新居浜の各地に墳墓

《古墳時代 3〜7世紀

 現在、下記の古墳が12ヵ所確認されている。この地域に古くから集落があり、豪族が居た証し。

 

(大生院)大生院王塚古墳  (上 原)唐津塚古墳

(中萩町)横山古墳群    (北内町)轟塚古墳

(東 田)東田古墳群    (城下町)下泉古墳

(坂井町)正光寺山古墳群  (金子山)金子山古墳

(磯浦町)西之谷古墳    (垣 生)小山古墳

(大 島)丸山塚      ( 郷 )上郷古墳  順不同

 

 

 

神野郡 かんのぐん

《飛鳥時代 592〜710年

 大化の改新(645)の翌年、〝改新の詔〟によって伊予国に評(評数は不明)が順次置かれ、大宝律令(701)制定後は13の郡(後に14郡)となり、旧西条と新居浜をあわせた地域が神野郡(後の新居郡)となる。

 郡を統治する役所の〝郡家〟は当初、神戸郷(西条市中野)に置かれた。

 

尋常小学校教科書『愛媛縣史談』(明治29年発行 文部省検定済)の地図

 

 

 

神野郡に6つの郷

《奈良時代 710〜794年

 霊亀3年(717)の国郡郷里制により神野郡に6つの郷が置かれた。

 

【丹上郷】 東は関の立石より、西は土橋まで。

 郡境は関ノ峠より西船木、角野、泉川、庄内、新須賀、神郷、高津、垣生、多喜浜方面。

 中心の郷家は泉川と推定。

 

  ※ 井上郷、井於郷、伊王郷とも記され、読みも「にのへ」「にのかみ」と様々ある。

 

【新居郷】 土橋より四本堂まで。

 中萩、高木、政枝、西之土居、江口、河内、一宮、久保田、金子新田など。

 郷家は中村本郷周辺と推定。四本堂は消滅。

 

【島山郷】 四本堂より小楠まで。

 大生院、飯岡、玉津一帯。

 

【賀茂郷】 小楠から青木柴まで。

 大町、神拝、旧西条の地域。

 

【神戸郷】 青木柴から柏まで。

 神戸、橘一部。伊曽乃神社領。 

 

【立花郷】 柏より経塚。

 橘一部と橘郷は氷見(氷見の各里からなる)

 周布郡の一部。立花は橘とも表記される。

 

 ※ 海部郷 … 奈良時代の平城京出土木簡より存在を推定され、宗像神社との関連が想定される。

 

 

 武国凝別命の8代目子孫 宮手別君、大別君、足国別君の父子3代は、評造、評督、郡大領に就任。足国別君の冠位や条里制からみて奈良時代の中頃以後、西条神戸郷の神野郡 郡家を新井郷(中村本郷)に移す。

 新しい居(庁舎)で〝新居〟、郡の中心を〝中村〟といい、郷の本村を〝本郷〟という。その後、新居の浜辺が〝新居浜〟と称され、海部(海民)が存在した。

 

 新居郡家の南に南海道(官道・旧街道)が通り、近くに新居駅(駅家 うまやが置かれていた。なお、奈良時代末頃に郡家は一宮神社の東方(新居殿屋敷。今の新居浜市役所付近)に移る。

 

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東大寺領の荘園〝新居庄〟

《奈良時代 710〜794年

 天平15年(743)に〝墾田永年私財法〟が施行。ここから貴族や有力な寺社は、全国的に開墾を始めて次々と私有の荘園とした。

 

 新居浜では奈良・東大寺が船木から泉川に荘園を開墾し約400年間、管理された。その荘園を〝新井庄〟と称されたが、後に〝新居庄〟へ改める。泉川の東臺神社そばの東田保育園が、東大寺出張所跡(庄家)という。

 法隆寺もこの頃、神野郡新居荘を含む14ヶ所に伊予国の荘倉(米穀等の倉庫)を設置。場所等は不明。

 

 この荘園は秀吉の〝太閤検地〟まで続いた。その間色々な変化を遂げつつ、農地拡大の推進力となる。

 貴族や大きな寺院(東大寺、法隆寺等)が大きな荘園開拓に力を入れ私有地拡大を図っていった。荘園には荘園管理者が置かれ、やがて武家へと変化していく。

 

 

 

新居郡へ改称

 《平安時代 794〜1185年

 大同4年(809)、即位した嵯峨天皇の御諱(実名)の〝加美能(賀美野)=神野〟を、恐れ多いとして避けたといわれ、同年に改称。この地名は昭和34年まで続いた。

 

『類聚國史』

 「大同四年九月乙巳改伊豫神野郡爲新居郡持觸上諱也」

 

『文徳實錄』

 「天皇誕生有乳母姓神野先朝之制每皇子生以乳母姓爲

  之名焉故以神野爲天皇諱後以郡名同天皇諱改爲新居」

 

※嵯峨天皇の乳母 加美能氏は大生院の出身という。

 

大正12年発行『愛媛縣新居郡誌』より

 

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