地域の歴史(要約)❷

 

新居一族の台頭と新居郡の庄園化

《平安時代 794〜1185年

 御村別の子孫は伊曽乃神社の祭祀を司る。大化の改新後、御村別の一族が郡司に任ぜられ、その子孫が世襲した。その流れから一条天皇の代(986〜1011年)に、新居氏の祖、為世が出たと記す市史があるが、『与州新居系図(伊曽乃神社所有・国指定重要文化財)』などから小千命が新居氏の遠祖とする説もある。

 

 国司の権力が失墜し郡司制度が崩壊し始めた頃であり、新居氏が武家の棟梁として頭角を表す。最初に新居浜の所有地で、私有権が認められた得恒(徳常)という名田(開拓買収した田畠・所)を開く。

 

 平安末期から鎌倉初期にかけて、新居氏一族は国衙領(公領)を基盤に勢力を拡大。東予各地に名田を開いた。その名を得恒や得重などと言った。

 

 新居浜金子徳常の新居殿屋敷をはじめ、泉川小字得恒、大生院銀杏木得恒、西条得恒村、西条得重村、周布郡池田得恒、桑村郡得恒、越智郡得恒など多数。

 

 これら名田は子孫が受け継ぎ、氏人(在地領主)は庄司(下司・田所などの庄官)を世襲した。『新居系図・観念寺文書』

 

 

 

河内村(後の金子村)

《平安時代 794〜1185年

 康平6年(1063)、河内国の源頼義は、藤原道長の四天王の一人 源頼信(初代 河内源氏)の子で、父と共に平忠常の乱を鎮定。前九年の役で陸奥国の豪族阿倍(安倍)氏を鎮圧。

 その功により康平7年頃、伊予守(国司)として河内国(大坂)より下向。

 

 新居郷を訪れた源頼義は、陸奥国を諦めて2年後に帰京したといわれ、村名は頼義出自の河内国や旧河内寺に由来すると考えられる。後に金子氏が入り、金子村となる。

 

 

 

承久の乱と新居

《鎌倉時代 1185〜1333年

 後鳥羽上皇(公家)が鎌倉幕府(武家)に対し、兵を挙げて敗れた承久の乱(1221)

 

 公家側についた新居一族と河野通信一族も戦いに敗れ、領地を没収されてしまう。新居総領盛氏をはじめ一族は追われ、桑村郡得恒に移った。そのため、新居郷徳常の新居殿屋敷は永く廃墟となる。

 

 新居郡丹上郷(井於郷・井上郷)宇高村に、宇高城(富留土居城)を築城していた新居氏分家の宇高五郎為信も、兄の盛氏とともに公家側で承久の乱に参戦した。しかし、宇高氏は辛うじて当地にとどまった。

 

 承久の乱の後、公卿の藤原年成 としなり と藤原行成 いくなり が、配流の刑で庄内に移り住む。二人はこの地の開発に努め、ここで結婚。子の出産のため、安産の神である木花咲耶姫 このはなさくやひめ をお祀りする森の木神社を創建。木花咲耶姫は、大山積神の子であり水の神でもあったので、その後も篤く信仰した。

 

 その後、二人は森の木神社で一緒に祀られた。また、二人の名前と、一緒に語らい歩いた道を〝友道 ともみち と呼んで庄内の小字名となり、今も呼び名は残る。

 

 

 

金子氏の移住

《鎌倉時代 1185〜1333年

 平安末期から室町初期に、武蔵国には武蔵七党という七氏からなる同族武士団が存在した。

 その武蔵七党の一つである桓武平氏村山党の別れで、武蔵国多摩郡村山郷の村山氏家範が、入間郡金子郷(埼玉県入間市)に移り金子姓を名乗る。

 

 その子孫の広家は、承久の乱で北条氏側につき武功をあげ、本領の入間郡金子郷、阿主郷の他に、播磨国斑鳩莊、伊豫国新居郷の地頭職に任じられた。しかし金子氏は、子の広綱まで武蔵国に住みながら新居郷を管理した。

 

 新居郷移住時期は、建長年間(1249~55)の広家説と、元寇後の弘安5年(1282)の頼広説がある。元寇では金子氏をはじめ、河野通有が参戦して河野水軍の功績は全国に名を馳せた。

 

 元弘元年(1331)、後醍醐天皇による討幕の乱が起き、建武元年(1333)に鎌倉幕府は倒れる。武蔵国の金子氏は武蔵七党とともに北条軍を破ったため、これを機に伊予金子氏は家運を別つ。

 

 

 

この地をめぐる争い

《室町時代 1336〜1573年

 伊予全体は河野氏の支配下にあったが、実質的には金子氏がこのあたりを治めていた。

 

《南北朝時代 1336〜1392年

 延元元年(建武3年・1336年)後醍醐天皇が吉野に逃れて行宮 あんぐう(仮宮)を持ち、また一方で足利尊氏が別の皇統を持つ光明天皇を擁立する〝南北朝時代〟に入る。

 

 暦応元年(1338)、金子康広は足利側(北朝)につく。7月、伊予国司 四条有資 総指揮の伊予南軍を討つため、足利尊氏の命を受けた備後国の岩松頼宥(新田一族)が率いる軍が東予に侵攻した。

 金子氏もこれに加わり、南軍の東条修理亮(松木)俊村らが固める新居関、庄司山を打ち破る。9月に西条庄を平定。南軍である庄司山の松木俊村と大島の村上義弘らを制圧した。

 

 南北朝時代の武将で知られる楠木正成は出自不明だが、河野家家譜にある矢野系図で、橘氏の別れであり新居氏の一族という伝承もある。

 

 暦応元年(1338)、備後国(広島県東部)と阿波国(徳島)守護となった細川頼春は、四国進出を開始。康永元年(1342)、宇摩郡・新居郡・桑村郡を平定する。

 

 頼春以降も細川氏は、康暦元年(1379年)に和睦するまで伊予国を攻め、このあたりで河野氏と戦った。和睦の後、宇摩郡・新居郡・桑村郡は細川氏の支配下になる。

 

 その後、細川氏は備中(岡山)守護になり、備中石川氏を守護代(守護職務の代行者)とした。

 

 細川氏は室町幕府初代の管領(執事)で、将軍の次に位置していたが、高官達の争いの中で讃岐へ逃げ帰ったことに始まり、細川氏は次第に衰退していく。

 

 

 

藤田氏と岡崎城

《室町時代 1336〜1573年

 藤田氏のもとは京都で院の御所や、上皇・法皇の御所を警護する武士といわれ、後醍醐天皇の吉野行宮にお供した。

 

 その後、この地へ移り住む。郷山で木柵を囲った砦を〝岡崎城〟とし、庄内村の里城に住んだ。

 

 ※ この頃までの城は「土+(戈+丁)=土を盛った」形を指す。土で固めた土塁の〝土居〟や、居住できるものまで様々。天守閣を構える城は、信長が戦に鉄砲を用いたあとのこと。

 

 

 

戦国の乱世

《戦国時代 1467〜1590年

 応仁元年(1467)に内乱が勃発し、争いは全国へ広がっていく。この約10年にわたる〝応仁の乱〟によって日本中が群雄割拠の時代に入り、伊予も巻き込まれていった。

 

 大永2年(1522)、宇摩郡・新居郡は細川家が守護となるが細川氏は赴任せず、その代官として備中石川氏の流れをくむ石川左衛門尉の子 虎之助が高峠城主に納まり、新居郡と宇摩郡の領主になる。

 

 この頃、金子城の金子氏をはじめ、郷山の藤田氏、田所の小野氏、城下の野田氏、生子山の松木氏、宇高の高橋(宇高)氏、御代島の加藤氏など小豪族が城を構えていた。

 

 阿波国の三好氏は、守護の細川氏を討った後、伊予へ攻め入るため、石川氏やこのあたりの武将と手を結ぶ。元亀3年(1572)、金子元成は三好氏とともに河野氏を討ちに出た。しかし河野氏は三好氏を撃退し、伊予から締め出したのである。

 

 

 

長宗我部元親の四国制覇

《戦国時代 1467〜1590年

 永禄3年(1560)、土佐の大名の長宗我部国親の息子として〝長浜の戦い〟で初陣を飾る。直後、父の急死によって第20代当主となる。

 

 天正3年(1575)、元親は苦戦の末、土佐を統一。織田信長と同盟を結び、伊予・阿波・讃岐へ侵攻。天正9年(1581)、讃岐と阿波をほぼ制圧した。

 

 

 この元親の勢力拡大に、信長は土佐以外の譲渡と臣下(家来)になるよう命ずるが、元親は拒否する。立腹した信長は、四国攻めの準備を開始。しかし天正10年(1582)、信長は本能寺で討たれ、信長による四国攻めは未遂に終わった。

 

 阿波国にいた十河存保(三好氏)信長の後ろ盾を失ったところを、元親は攻め込んで阿波国を制圧した(十河存保は讃岐国に戻り、天正の陣で秀吉側につき武功をあげている)

 

 これを受けて金子元宅は地域の安泰を図るため、息子の専太郎を元親に預けて同盟を結ぶ。こうして元親は、河野氏勢力周辺を除きほぼ四国全体を手中に収めることになった。

 

※本能寺の変の直前の5月21日に、元親が信長との衝突を回避する書状平成26年に見つかった。