地域の歴史(要約)❸

 

秀吉の四国攻め

 信長亡き後、信長家臣団の一人だった羽柴秀吉は柴田勝家らほかの家臣を抑え、天下統一へ動き出す。

 

 天正十二年(1584)、四国をほぼ統一した元親は、息子の信親らを人質として大坂へ送り、伊予・土佐安堵(土地の領有)の約定を秀吉と交わした。

 しかし、毛利元就の三男で小早川家の養子となった隆景が伊予を懇望する。秀吉はこれを承認し、人質の長宗我部信親を元親の土佐へ返した。

 さらに秀吉は弟の秀長を総大将に、伊予・讃岐・阿波の三方から四国攻めを開始。伊予は毛利輝元が、小早川隆景らと攻め入った。

 

 この時の毛利・小早川軍との戦いを〝天正の陣〟という。

 

※地図は現代のものです。特に岡山や徳島の海岸線についてはこちらを参照してください。

 また、城の位置や進軍経路について、書籍やネット上でも様々あります。

そこで、ここでは旧街道や地形、海流なども考慮し、おおよその位置を独自に示します。

 

 

 

天正の陣

※天正陣実記や県市町史誌によって日付・場所等の記述が違うので、ここでは総合的にまとめます。

 

 天正十三年(1585)、新居郡・宇摩郡の武将は、毛利軍襲来を前に高峠城(西条市洲之内)で軍議した。多くが降伏を主張する中、金子元宅 もといえ が発す。

 

 『小身の武士ほど浅間しきはなし。昨日は長宗我部に手を下げ、今日は小早川に腰を折り、土佐の人質を振り捨てて、他人に後ろ指をさされんことは心苦しきなり。所詮眉をひそめて世を渡らんよりは討死し、名を後世に顕さんには如かじ』

 

 これに一同奮い立ち、ともに応戦の誓約を結ぶ。岡崎城 藤田大隅守一族、城下の野田右京之介盛秀、田所の小野氏など、名を連ねた兵は約二千騎。

 この時、高峠城の石川通清が前年の十月に他界。長男 刑部勝重は土佐預かりになっており、城主は八歳という若さの虎竹丸だった。そのため通清の義弟(妹婿)の元宅が、後見役として全軍を指揮することになる。

 

 元宅は近藤長門守ら武将に、高峠城を固めさせ、元宅自身は高尾城(西条市氷見)で陣を張った。弟の対馬守元春が金子城を守り、高橋氏と大久保氏が里城を固めた。

 

 六月二十七日。隆景率いる第一陣は、今張(今治)浦に上陸。東禅寺(今治市南宝来町)に本陣を置いた。

 

 七月五日。吉川元長(毛利家)らの第二陣も今張浦に到着し、第一陣とともに伊予勢の動向を探る。

 

 七月十四日。進軍を開始。高尾城(西条市氷見)と丸山城(高尾城の前山城)を攻め、丸山城が落城。

 

 七月十五日。毛利軍、高尾城を総攻撃。元宅は兵を激励し奮戦するが、長宗我部氏からの援軍も含め、多数の者が倒れる。

 

 七月十八日(十七日の記述あり)。毛利の三百兵が、近くの丘の上から高尾城へ一斉射撃を開始。同時に二万の軍勢が総攻撃を仕掛ける。元宅は城郭に火を放ち、残る将兵とともに野々市原へ移動。元宅以下六〇〇騎余りは、大軍相手に徹底抗戦を挑み、この地で壮絶な最期を遂げた。

 

 金子城、岡崎城、生子山などの諸城も、御代島と沢津から上陸した毛利軍により陥落。

 

 隆景は、野々市ヶ原で首実検(首の検分=討った武将の首を敵味方で確認。その後に供養)を行い、その後、数百の亡骸を集め、一句唱えて弔う。

 

 ──  打つも夢 打たるるもまた夢なり 早くも覚めたり 汝らが夢  ──

 

 

 讃岐で戦っていた元親の家臣 谷忠澄(忠兵衛)は、元親と会見。不利な戦況に、土佐一国の安堵(土地の領有)で降伏するよう進言した。これに対し元親は、

 

 『伊予の金子備後守らは、元親譜代の家臣ではないとはいえ、ひとたび約束した言葉を違えず、毛利勢に攻められても降伏せず腹かききって討ち死にした。西国に名を知られたこの元親が一戦もせず和議を結ぶなど恥辱の至りぞ。汝急いで一の宮へ帰り腹を切れ』

 

と激怒。しかし、周囲の重臣たちも揃って和睦の好機であると進言。二十七日、土佐一国の安堵を条件に、元親は秀吉の軍門に下る。

 

 八月六日。吉川軍は宇摩郡へ侵攻。仏殿城(川之江城)を攻略した(市史によっては無血開城)。即座に軍は西へ向け進撃を開始。(途中、八月六日に金子勢の残党二百余名が立てこもる金子城を掃討との市史あり)

 周桑郡、越智郡、野間郡、風早郡、和気郡、温泉郡、久米郡、浮穴郡の多くの城が次々に落城。この情勢に、残る豪族は城を開け渡していく。

 

 毛利軍は湯月城(湯築城・松山市道後)へ攻め入った。河野氏は、近しい武将を湯月城に集結させ応戦。

 戦いの中、隆景は河野通直に書状を送り、越智姓の血脈を守るよう諭す。これを受けて通直は、城を開き降伏。続いて宇和郡の西園寺公広、浮穴郡の大野直昌(大除城)も帰服し、九月に戦いが終息した。

 

 この戦で、多くの寺や神社も兵火にかかり焼失。そのため伊予は、創建年不明の寺社が多い。

 

 ※この時に焼失したと伝えられる新居浜の神社仏閣。

  宗像神社、八雲神社、宗像寺、常福寺、一宮神社内宮神社瑞應寺

  円福寺(宇高から新須賀へ移転)萩生寺正法寺光明寺など

 

 ※天正の陣についてはコチラも参照してください

 

 

 

天正の陣のあと

 河野通直の大名存続は叶わず、天正十五年(1587)、毛利輝元の安芸(広島県)竹原へ移住。同年七月、逝去。これにより大名としての河野氏は、終わりを遂げた。

 

 

お塚さん

 新居浜市内では、田畑や家の敷地内に小さな祠を見ることができる。これは〝お塚さん〟と呼ばれ、天正の陣でこの地域を守るために戦った武将が倒れた地に祀られたものという。(写真は庄内町の神野さん宅)

 

 

 

 

 

 

 

民部神社

  御代島で居城を構えていた加藤民部正(民部守)が御祭神。天正の陣に参戦し、加藤氏は討たれる。その地に祀られたのが民部神社。庄内町にあり、そばの加藤家がお護りしている。

 また加藤民部正を御祭神とする西瀧神社は、宗像神社の境内社として祀られている。

 

 

 

常福寺と薬師堂

  庄内にあった常福寺も、天正の陣の兵火にあい、のちに小さな仏堂になる。この戦を逃れるため、仏像を土に埋めた話が伝承として今も語り継がれている。

 その話は西条藩が編纂した西条誌にも記載があり別途、記述する。今も常福庵、お薬師さんと呼ばれて親しまれている。