地域の歴史(要約)❹
江戸時代初期 — 小松藩・西条藩・天領 —
慶長8年(1603)、江戸に幕府が開かれても、大坂の役(1614〜15)まで全国的には不安定だった。
寛永13年(1636)、尾張国黒田藩(愛知県一宮市)の一柳直盛に西條藩が与えられるが、大坂で逝去。長男直重が2代目藩主となり、加茂川の治水や新田開発で藩政を整備。
3代目藩主直興は、失政により加賀藩預かりとなる。直盛の三男直頼は小松藩を興し、明治の廃藩置県まで一柳家が治めた。
寛文10年(1670)、紀伊国(和歌山県・三重県南部)紀州藩藩主 徳川頼宣(家康の十男)の子 松平頼純が藩主となる。以降、西條藩は紀州藩の支藩。
領地は、西が石田村・しう村(周布)。東は天満村・土居(宇摩郡)・明神まで。南は別子銅山や石鎚山。
この領地の中に小松藩領や、天領地も含まれていた。『新居浜市指定文化財・西條藩地鳥瞰図屏風』新居浜郷土美術館所蔵より
※ 黄色は天領、青色が小松藩領。
※ 拡 大
元禄3年(1690)、別子の山で銅を発見。以降、新居浜は住友と多喜浜塩田と共に歩む。
西条藩と庄内村
西条藩には63ヵ村(廃藩時)あり、これを6組に分け、組ごとに大庄屋、その下に庄屋を置く。
庄屋は大庄屋からの通達を村民に徹底させ、治安、生業、営繕などを管理し、その状況を大庄屋が直属の郡奉行へ毎月報告した。
西条藩の総石高は、表高3万石(実質4万3千石)。庄内村の村高は豊作と不作で一定ではない。藩内各村は新田・新畑を開発し、村高を上げていく。
藩内6組において庄内村は、宇高、澤津、郷、垣生、阿島、大島(黒島)、新須賀の8村で澤津組に所属。当初は宇高組だったが、後述の農民一揆が発端で、澤津組となる。
※新須賀村
西条藩領や松山藩領を経て、幕領(天領)地となった。西条・小松藩は芝居や飲食を厳しく取り締まっていたが、新須賀村など幕領地は手が出せなかったという。
そのため村人は幕領だとして気位が高く綱紀も緩かった。諸国の芸人が流れ込み、農民が脇差をするなど風紀が乱れていたとも言われる。
西条藩政と飢饉
西条藩は、立藩当初から領民の教育に力を注ぐ。藩祖の「法度を守り、孝行を励み、倹約して家業に精を出す」という教訓を領民に周知させ、言行や心がけが優れた者には特賞を与えて表彰した。
これにより年貢の収納率が高まり、享保15年(1730)、立藩60周年を官民和楽で迎えられた。しかし2年後から藩政は揺らいでいく。
享保17年(1732)、初夏から雨が降り止まず、害虫が大量発生し大凶作となった。幕府は在庫米を開放し、西条藩は幕府から3千両と、別子銅山や各地の富豪からも借り入れた。また、藩内の穀類をすべて津留( つどめ=移出禁止)し、飢民に飯米を支給。さらに多喜浜の塩田開発にも力を注いだ。
それでも翌年も食糧は不足し、疫病が流行した。〝享保の大飢饉〟である。以降、西条藩の財政は長く悪化する。
宝暦の一揆と三義民
宝暦3年(1753)は豊作となった。そこで財政難の西条藩は11月7日に年貢を引き上げる。とくに国領川両岸の村々では3割近くの増額だった。反発した農民は各所で協議を行い、嘆願書を提出。しかし一切受けつけられなかったのである。
12月10日。宇高の高橋孫兵衛、高橋弥市左衛門、神郷村又野の村上平兵衛の3人が嘆願書を持ち、西條藩へ強訴(ごうそ=集団での訴え)に立ち上がる。本来は、庄屋・大庄屋・郡奉行を経て上申されるが、庄屋以上が取り合わなかったためである。
強訴に対し幕府は、首謀者の妻子父母兄弟ほか大庄屋・庄屋・組頭まで処罰していた。そのため村役人は懸命になだめるが、3人に続いて大勢の農民が加茂川へ殺到した。(推定1万人以上との市史あり)
西条藩は幹部を次々に捕らえ、集まった農民を翌日に解散させる。結果として西條藩は農民の願いを聞き入れたものの、幹部たちは投獄された。
この一件を江戸藩邸が約1年審議する。判決は首謀者を斬り、関係者を労役、追放などであった。そして宝歴4年(1754)11月21日、首謀者として3人は西条椰木の刑場で処刑されたのである。
人々は三義民と称えて悲しみ、宇高観音堂に碑を建て、三義民社(滝宮)を建立。宇高八幡神社でも三義民が祀られている。藩主は伊曽乃神社境内に又野神社を建て3人の御霊を祀った。
この騒動から藩も領民も自重する。作物の作況や農民の負担力に応じて年貢を取り決めるなど、官民一体になって藩の復興へ向かった。
※ 市史に、三義民を称えて『喜守神社(喜光地)、田守神社(東田)、土守神社(星原)』も建てられたとあります。しかし、場所等は不明です。
伊能忠敬『日本全図』
寛政12年(1800)、幕府の命で全国を測量開始。文政元年(1818)に亡くなるまで日本全図の制作に尽力した。西条藩内は第6次測量で、文化5年(1808)8月下旬頃の絵図がある(8月30日新居濱泊り)。
江戸時代に立川(新須賀川。今の国領川)が整備され、御料(天領)の新須賀村が分断されているのが分かる。