宗像神社について
はじめに上の宮大明神
ここは古くから〝創造・万物の神〟を祀 まつ る〝上の宮神社〟がありました。
これは、この地域の祖先が農作物などの生産や、人の行く道を示す御神徳の高さを称えてお祀りされたものと分かります。
そして宗像神社へ
その後、約1430年前の “崇峻天皇 すしゅんてんのう 2年(589年)” に、宗像大社のある九州の宗像(胸肩)地方から宗像治郎が宗像一族を率いて移り住みます。その時、一族の氏神である “宗像三女神” を “上の宮神社” に合わせてお祀りしたのです。
一時は〝胸肩明神〟と称したこともありますが、これ以降、“宗像神社” と呼ぶようになりました。
そして今日まで庄内地域の氏神・守護神として大切にされております。昔の参道は今の国領川まであり、境内地も今より大きかったことが記録に残っています。
八雲神社を合祀 ごうし
また、庄内地域には庄内上分の氏神として “八雲神社” もありました。ところが四百年前の戦国時代に〝天正の陣〟という戦いが起き、これを避けるために郷山へ遷 うつ られたのです。こうして江戸時代の終わりまで、庄内の氏子たちは宗像神社と郷山の八雲神社を一緒に参拝されていたのです。
明治時代に入ると「やはり氏神なので庄内にお戻りいただこう」となり、明治5年、この宗像神社に合わせてお祀りされました。そのため今でも宗像神社は、八雲神社とも呼ばれております。
このあたりが八雲町となるのは昭和43年からですが、それまではここも庄内町で、宮ノ西1276という番地でした。
日清・日露戦争における逸話
明治27年(1894)、日清戦争が開戦します。出征の際に宗像神社で安全祈祷を受けた人たち全員が、無事に帰還したのです。
これが広く知れ渡り、明治37年(1904)の日露戦争では各地から祈祷を受けに人々が訪れ、ふたたび全員無事に帰還を果たします。そのため必勝祈願、家内安全として広く各地から崇敬を集めました。
拝殿の賽銭箱は昭和5年、横浜市の堀田平太郎氏と、とも夫妻の奉納です。右に武神 八幡神社の御神紋、左に八雲神社の御神紋が並べられています。そして昭和13年に橋を新しくした際、欄干に〝百戰・百勝〟と記されました。