東雲(旧 新須賀)

 

新須賀村

 新須賀町には〝堀江神社〟があります。昔の新須賀村は、今の東雲町や南小松原町、清水町の一部も含めた広い村でした。

 

 明治の初め頃、新須賀村に日新学校、庄内村柳泉学校金子村に有終学校という小学校がありましたが、明治20年に金子尋常小学校に統合しました。明治22年には庄内村と新須賀村は金子村と合併し、大きな金子村になりました。

 そのため、東雲など旧新須賀村の子どもたちも国領川を越えて、今の金子小学校へ通っていたのです。これは昭和20年代までの話です。

 

 こうしたことから新須賀と庄内の人たちは昔から仲が良く、一時は宗像・八雲・堀江の三つの神社を合わせようという話が持ち上がったことがあります。でも、その話は実現しないまま終わりました。

 

 

東 雲

 広い国領川をはさんでいるのに氏子地域と不思議がられますが、東雲町は田所町や桜木町と同じ旧新須賀村です。旧新須賀村の南側が、宗像神社の氏子地域になります。

  

 天正の陣(1585)の際、田所に居城を構えていた小野一族も氏族2千騎の一翼として戦いに挑みます。しかし、同年7月15日(17日説あり)、一族八人は向原(現在の東雲2丁目あたり)の竹林で戦い、最期を遂げたのでした。

 

 後世、残った一族がこの地に祠 ほこら を設け、御祖 みおや 神社(現在の東雲小野神社。里人は六神さんと呼んだ)を祀り、田所から移り住んで開拓したのが現在の東雲です。東雲小野神社では毎年夏、御霊 みたま 鎮めの例祭を斎行しています。

 

 江戸時代まで、立川(国領川)は城下あたりから大きく蛇行していました。河口は今の沢津(沢=川、津=港・河岸)あたりです。と言っても、江戸時代以前の河口の様子について明確な史料は残っていません。

 

 この立川を、幕府の許可を得て住友家がほぼ真っ直ぐに整備しました。おかげで新須賀村が2つに分断されたのです。

 

 江戸時代の新須賀村は幕領地でした。そのため西条藩の地域内であっても新須賀村に対して何もできない、いわゆる治外法権的な扱いでした。

 川を整備した理由として、住友の銅を流す予定があったという説と、頻繁に起きる洪水対策説、その両方との説があります。今も江戸時代の幕領川堤防の跡があるそうです。

 

 川の東側が新須賀乙番地で今の東雲町、清水町、南小松原町、桜木町あたり。西側は甲番地で今の新須賀町、田所町、平形町の一部。国領川をはさんでますが、明治22年に金子村と合併するまで1つの村として存続していたのです。

 

 乙番地あたりを古くは〝向原〟や〝新須賀原〟といい、略して〝須賀原、原地、原〟と呼ばれました。昭和に入り、東雲町となりますが由来は不明。東雲とはあけぼのを意味します。

 

 明治23年に高津小学校はできていましたが、昭和20年代まで東雲の子どもたちは金子村の子として国領川を渡り、金子小学校に通っていました。川が増水すると渡ることができず、仕方なく休むしかなかったといいます。平形橋がまだなかった頃の話です。

 

 昭和27年に平形橋が架設されてから、今も地域は発展を続けています。

 

明治頃の新須賀村(新須賀土地改良区所有)

 

分かりやすくするため、現在の事業所等も入れる