八雲神社・八雲保育園

 

八雲神社の遷宮 せんぐう

 八雲神社は古くから宗像神社の南方にあり、庄内上分の氏神として護持されておりました。

 

 戦国時代には郷山の岡崎城主 藤田山城守 ふじた やましろのかみ が崇敬 すうけい されておりましたが、秀吉による四国攻めで小早川(毛利)隆景が襲来した〝天正の陣〟の兵火で焼失したのでした。

 

 その時の不思議な伝承が残っています。

 

 敵兵が迫り来る頃、5羽のカラスが飛んできて大きな声で鳴くと神殿の扉が開きました。そして中から真っ白なものが出てきて、カラスの背に飛び移ったのです。

 5羽のカラスは揃って郷山の西に向かって飛び立ち、山の麓 ふもと にある3つの羽休石 はやすめいわ の上に降り、置物のように動かなくなったのでした。

 これを見た里人は「八雲の神様がカラスに乗ってここまで来られ、ここにお祀りして欲しいとの思し召しであろう」と話し合います。

 その羽休石のそばに立派な神殿を造り上げ、八雲の神様をお祀 まつ りして表祇園牛頭天王宮 おもてぎおんごずてんのうぐう と申し上げたのでした。

 

 こうして八雲の神は戦 いくさ の難を逃れ、江戸時代に入っても庄内村の人々は、宗像神社と郷山の天王宮を氏神として崇敬したのです。この話は江戸時代に西條藩が編纂した『西條誌』にも記述があります。

 

 

 

宗像神社へ合祀 ごうし

 天正の陣の難を逃れるためとは言え氏神が郷村に鎮座するのは不自然となり、明治4年1月7日、宗像神社に合祀されました。両社名を並べた御神札等は明治42年まで用いられます。そのため宗像神社は、いまでも八雲神社とも呼ばれています。

 

 その後も郷山から天王宮の花表(鳥居)、石灯籠等が順次、宗像神社へ搬入されていきました。昭和52年に磐座 いわくら(羽休石)が遷 うつ され、現在は元の八雲神社と郷山の中間の方角に祀られています。

 

 今では毎年1月7日に “福寿祭” が行われ、氏子の方の無病息災、家内安全、商売繁盛などを祈念し、収穫されたばかりの餅米をつき、 “福餅まき” でお持ち帰りいただいております。

 

 

 

八雲保育園などの開設

 昭和18年、西町に県立新居浜家庭寮(現えひめ学園)が設立され、当時の宗像神社宮司 合田正良は寮長に就任しました。(同年、高松宮殿下が御視察で訪れられた。)

 

 また宮司は終戦直後、戦災者や引揚者たちが安心して働きに出られるよう県や市に働きかけ、保育園の設置に奔走します。保育所不足は全国的な問題でしたが、児童福祉法はまだ制定されていなかったのです。そのため相当な苦労をし、ようやく私立〟の〝新居浜保育園〟の開設にこぎ着けました。

 

 続けて10月1日、宗像神社拝殿で子どもを預かり、私立で保育園を開設します。その保育園は、子どもの守護神でもある八雲神社にちなみ〝八雲保育園〟と名付けました。

 

 当初の八雲保育園は、宗像神社の拝殿に畳を敷き、オルガンが1台という簡素な形態で始まりました。神社で市立になり、隣接地の園舎ができた昭和26年6月に市へ完全移管したのです(このあたりが八雲神社の名前を用いて、庄内町から八雲町になったのは昭和43年5月のこと。)

 

  写真は宗像神社拝殿前。 既に〝市立〟になっている。

 

 

 さらに10月5日、高津青年会堂で〝高津保育園〟を開設(昭和21年5月、松ノ木社宅へ移設)します

 

 昭和23年1月には朝日町(現菊本町)に、住友化学菊本製造所の倉庫を利用して〝朝日保育園〟を開設(昭和41年11月14日、新須賀町の堀江神社隣へ移設)ました

 

 それぞれの保育園は私立で宮司が園長を兼任し、児童福祉法が制定された昭和23年から朝日保育園以外を順次、市へ移管し園長を引いていきました。

 

 終戦直後は、GHQの占領政策もあって子ども向けの絵本や紙芝居などほとんどありません。そんな時代に、家庭寮や保育園の子ども達からせがまれた形でしたが、子ども好きの合田正良は数冊の童話集を出版しました。印刷だけでも大変な時代です。しかも、GHQの検閲を気にしたりと出版には苦労したそうです。

 

左は昭和23年、右は昭和26年に出版。

 

 また、合田正良は植樹も好きだったので、市立になってからも八雲保育園の園庭へ、宗像神社と連なるように植樹していきました。これは神さまのご加護を賜 たまわ り、子ども達の成長をいつまでも見守りたいという願いを込めたものです。

 

 その後も合田正良は、東町にある〝私立みなと保育園〟を開設します。土地の収用に様々な手続きが重なり、かなり苦労しながらの開設でした。そして、亡くなる平成2年まで宮司と園長を兼務したのです。

 

 宗像神社の境内には電話の形をした遊具があります。これは神社へ遊びに来る子ども達のために作ったものです。ほかに遊具の雲梯うんてい =太鼓橋)社殿の南側にありましたが、腐食して危険なので平成19年に撤去しました。

  

 今でも拝殿時代の八雲保育園の卒園生が訪れ、「境内や参道の木に登ったりした」「冬は吹きさらしで寒かった」と懐かしそうに話して行かれます。隣へ移ってからの卒園生も「あの時の園舎も変わったし、知っとる先生もおらんから懐かしい神社へ寄らせてもろた」と笑顔で当時の話をして行かれる方もいらっしゃいます。

 

※ 平成20年の八雲保育園の民営化に伴い、当時、朝日保育園園長と堀江神社宮司で合田正良の長男 合田千里があるべき姿に戻すべく名乗り出ました。しかし、審査内容は明かされまま不適格とされ、申請は却下されたのです。

 子どもの豊かな成長を願い、八雲神社にちなんで名付けた創立者 合田正良の意志を継げなかったのは残念でなりません。